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神戸で販促なら、神戸で一番「さん付け」をされるようになったマーケティングに強い会社に頼んでみる

記事内に商品プロモーションを含む場合があります

タイトルは釣り。でも本音。

販促の相談をしてこられるお客様は、金銭的にも精神的にも余裕があるわけではない。こちらが拘束される時間に対してのフィーを請求することが本来かもしれないが、その成果に対してバックしてもらうという成果報酬の形で請け負うこともある。印刷という目に見える実業ではなく、販促の相談というのはカタチの見えない虚業のひとつ。教科書に書いてあるようなことではなく、選ばれていく商品やサービスの構築と、その具体的な旗の振り方については自分自身の経験で培ってきたことを提案したいと思っている。自分に費やしていただく金額が投資となって、それ以上の売り上げを達成していただくのは当然のこと。販促の相談については、拘束される時間に対して金額を提示するという不誠実なことはしたくない。

神戸で販促の相談といえば

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販促とは「売る」のではなく「選ばれるための永続的な仕組みを構築していくこと」だと考えている。

その方法はマニュアルにあるのではなく、自らが経験して実際に結果を出した人や企業だけが体系化したノウハウのこと。うちの会社でなくても、マーケティングの手法を上手に採り入れ実際に結果を出している会社もたくさんある。相談相手を選ぶときに大切なことは、その相手が実際に結果を出しているかどうかということ。

「SEOの対策、いかがですか?」

そんな電話営業があって辟易とされているところもたくさんあるだろう。同じことで、販促や売上に関する相談や提案を任せる相手としては、相手の事業の本質が本人の口から語られずとも伺い知ることの出来る存在を選ぶようであってほしい。僕たちは野菜を買うとき、野菜の知識に豊富な人であることは勿論、野菜を美味しそうに食べる人から買いたいと思うものだ。

売る罪悪感、選ばれる満足感

販促という言葉が胡散臭く感じられる理由のひとつは、相手の土俵に乗り込んで口先だけで論じるイメージがあるからだろう。これは否定しない。ゆえに、自分自身がお客さんの事業をお手伝いするときには「売る」という言葉は用いず「選ばれるようになりましょう」という呼びかけを行っている。

100:0で選ばれる必要はなくて、51:49のほんのわずかな違いを作ること、習慣にしていくこと、浸透させていくこと。商売の本質なんて、ただそれだけのことだ。カタカナ語を一生懸命覚えたところで、お客さんに「しんどいな」と思われたら二度と見向きもされなくなる。自分がどれだけ商品やサービスを磨いたところで、お客さんにそれが届かず、響かなければ、お店や会社は存続できない。自分の行っていることを頑なに信じることに加えて、客観的な鏡の存在を持つことの重要性に気づくこと。答えはお客さんが持っている。思い込みの先で破たんしてはならない。

販促という言葉をあえて今使う理由

印刷屋という名前は、お客さんが入口のドアを開けやすいからそうしているのであって、印刷という事業そのものは自分たちにとって手段の一つであり目的ではない。「印刷屋」と「デザイン事務所」が並んでいて、ドアを開けやすいのはどちらだろうか。「販売促進コンサルタント」と「印刷屋のばたちゃん」であれば、どちらの方が馴染みやすいか。自分がそう呼ばれたいと思う方を選ぶのではなく、お客さんが直感的にドアを開けやすいことを選んでいく、その想像力。商売で一番大切なことのひとつだろう。

ただ一方で、「販促」という明確な目的を出していくことで、まだ自分たちの存在を知らないお客様に遠回りをしないでいただくことも、取り組むべき段階に来ているのだという想いが芽生えつつある。抽象的な概念を自分たちからお客様に押し売りをするのではなく、自分たちの姿勢に期待を向けていただいて投資をしていただく。僕たちはそれを元手に売上を組み立てるお手伝いをする。シンプルに、こういうことをしていると語りたくなってきたということだ。

お店や会社を潰したら

あえていま、自分たちは「お客様の販促」に取り組んでいくという言葉を口にした。その実態は「売る」のではなく「選ばれ続けていく提案を行っていく」という話もした。思い込みを回避するための「鏡の存在になる」ということも伝えたつもりだ。

冒頭でも書いた通り、売上をあげたいという相談をしてこられるお客様には金銭的精神的余裕がない場合が多い。僕は実際に、その追い詰められた先で、夜逃げや自殺をする経営者の方を何人も見てきた。「最後の最後まで寄り添ってくれた西端くんにだけは払っておきたくて」と呼び出され、その翌日に命を絶たれたAさんの表情は今も忘れることができない。つまり、僕たちの仕事は、お店や会社の命運はもちろん、経営者の人生や命にまで関わる可能性があるというものだ。

それに本気にならないわけがないし、そんなたくさんの無念に触れてきたからこそ、遠回りをせず、ちゃんと相談できる相手を見つけてほしいという願いを込めて今日の記事を書くことにした。心のどこかでは、「だから自分たちを選んでほしい」という気持ちもある。ただそれ以上に「それっぽい理論」と「それをしてきた経験」は異なるということを一番伝えたかったのが正直なところである。

相談してもいい、相談しなくてもいい。

ただ、どんな絶望にありそうなときも、答えはあると決めてほしい。
その答えを自分のなかに見つけるのも、鏡のなかに探すことも、事業をする人間の判断であり責任なのだろうと思う。

さあ、僕の旗は、どんな風に見えただろう。