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裁くのは法、償うのは本人、許すのは周囲、許してほしいのは僕たち

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「また呼ばれるでしょうね、そのうちね」との有野の発言に加藤は、「ヤツが帰ってきたら、呼ばれるのかな」と相方・山本圭一を思わせる発言をした。

引用元:加藤浩次「アッコにおまかせ!」を降板した理由を聞かれ「ヤツが帰ってきたら、呼ばれるのかな」 – ライブドアニュース

臆することなく相方の復活を願う発言をする加藤さんには好感を持っている。

「芸能界は罪を犯した人間に甘い、簡単に復活を許すべきではない」という意見もあるけれど、それが「芸能界以外の僕たちが住む世界で生きていきなさい」ということなのであれば、この世界はずいぶんと下に見られたように思ってしまうのは卑屈かな。

罪を裁くのは法で、罪を償うのは本人。そして償った人間を受け入れていくのは周囲の人間で、度の過ぎた排他的な意見がその人の復帰を妨げ再犯に走らせるようなことがあってはならない。罪を穢れとして考えた場合、完全に払拭できるものではないし、生理的に受け付けないという心理も当然に理解はできる。過去のことだからといってゼロにはならない、けれど、未来に生きていく人が、その過去に縛られて屈折することのない環境を考えていくこともまた、僕たちは求められている。

「ひとをゆるす」とか「ひとをうけいれる」とか。

そういう言葉を用いるとき、僕たちは、いつか未来の自分の姿を重ねるのだろうし、過去に過ぎた自分の痛みを自覚しているのだろうと思う。「許容」は容易なことではないけれど、差し出した一枚のそのカードで自分も救われるときが来るのではないかと考えてしまうのは、やっぱり自分が小悪人だからなのかどうか。