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周囲からは見えない病気や障がいについて、私たちにできること ~多発性硬化症になった教え子のインタビューに触れて~

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かつて家庭教師をしていた時代の教え子たちの「その後」を、直接やりとりしたり、本人たちのSNSで知ったりすることがあります。

自分が患った多発性硬化症という病気について、インタビューに応じた彼女もそのうちの一人。

【闘病】耳が聴こえづらかったのは多発性硬化症のせいだった

子どもの頃から難聴があり、25歳のときには左耳の聴力がほとんどなくなったことを告白。その後ネットで検索をして、自分の病気を突き止めてくれる病院に出合えたことをインタビュー内で答えています。

「指定難病」で、今の医学では完治はしない。再発を繰り返す病気だから、再発を抑制する薬を使っていくとのことでした。 そして、もし再発した時にはステロイドパルス療法をしますと。

【闘病】耳が聴こえづらかったのは「多発性硬化症」のせいだった

自己免疫疾患。

自分の身体を、自分自身が攻撃してしまう病気です。彼女の場合は、耳に障がいが出ただけではなく、身体に痺れが出たり動かしづらくなったり、それを起因とするうつ状態にもなってしまったそうです。治験にも参加して、長く長く闘ってきました。

今は症状は落ち着いているそうですが、現代医学では根治不可と言われているこの病気。いつまた再発するかは分かりません。

周囲からは「見えない」病気や障がいに、僕たちはどう想像力を働かせるべきか

闘病をしてきた彼女は、こんなメッセージも発しています。

私が診断を受けた15年前にはなかったのですが、今はヘルプマークがあります。外見からはわからない疾患や障害の方も付けています。電車やバスの中でヘルプマークを付けている方を見つけた際は、席を譲っていただけると助かります。

【闘病】耳が聴こえづらかったのは「多発性硬化症」のせいだった

人を傷つける言葉を使わない、いつも優しい、そんな彼女らしい気遣いに満ちたメッセージだと思いました。

そう、外見からはわからない疾患や障害。僕たちの隣人は、日常を生きる顔には絶対に見せない「なにか」を抱えている可能性があるのです。

僕は2018年の9月に僕は首のヘルニア(頚椎椎間板ヘルニア)になりましたが、ずっと首にカラーを巻いていたからでしょう。バスに乗っても電車に乗っても、周囲の人たちに席を譲っていただけるという体験を何度もしました。

物を落とせば拾ってくれたり、下の棚にあるものは取ってくれたり。ペットボトルの蓋を開けてくれる方々もいました。目に見えて分かりやすい僕の病気に、世界中の人たちがとても優しかったのです。

僕などはまだ、こうして「やれどこが痛い」だの「ほらこんなにしんどい」だの、声に出して伝える人間だから良いのでしょう。問題は言えない人です。言いたくない人です。たぶん、多くの人は、自分の弱さを伝える勇気を持ちません。もしかすると、病気や障がいという負を伝えることを恥ずかしいと感じている人もいるのかもしれません。

そんなことはないのに。ぜったいに、そんなことはないのに。

声にできない。だから、笑っている隣人もみな、負を抱えているのだと思いたい

頚椎椎間板ヘルニアになり、その後新型コロナに感染して入院し。

医療従事者や周囲の方々に助けられ、僕は今、ここに立っています。自分にできる恩返しは何だろうと考えたうちのひとつが目には見えない病気や障がいを抱えている人たちの環境を、すこしでも改善することでした。

「伝えることが好きな人間なので、参加させてください」と、そんな作文を書いて応募したのが 明石市障害者の差別の解消を支援する地域づくり協議会 の公募です。現状を勉強して、言葉にして伝え、行政には提案をしていく。そんなことしかできませんが、そんなことの積み上げが、「目には見えない想い」を形にしていく流れになれば良いと考えています。

声にできない。だから、笑っている隣人もみな、負を抱えているのだと思いたい。

みなが幸せなのではなく、みなが幸せになるために、みなが病気や障がいという負を抱えているという前提を共有することが、僕たちにできる「一歩」なのかもしれないですよね。

あの日、譲られた席はとても温かった。

そんな体験を、僕は僕の言葉で伝えていきたいと改めて思った、そんな教え子のインタビュー記事でした。

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