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川柳界の僕の兄貴分である加藤鰹さんが亡くなった。

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川柳界の僕の兄貴分である加藤鰹さんが亡くなった。

12月にお会いしたときは、癌が全身に転移しているとは思えないくらいの食欲と笑顔で、僕たちを和ませてくれたのに、年が明けてから病状は一転。「今度は飲みにいこうね」という約束は、僕が死ぬまでお預けになってしまった。もう、この世では会うことも語り合うこともできない。

1月25日22時14分、加藤鰹は51歳で天国へと旅立ちました。

本人の強い希望により、葬儀告別式は行なわず、御家族立ち合いのもと、火葬納骨を無事すまされました。
今後はご自宅への連絡もお控えくださいますよう、御家族に代わりお願い申し上げます。

余命3カ月と宣告されてから約半年。
延命治療は望まず、楽しく笑って生きると決めた鰹さんでした。
東北、東京、西日本、山梨、新潟にも行きました。もちろん川柳をすることが目的です。
結果、各地の大会で神がかり的な成績を残しましたが、メインは皆さんに会いたい一心だったと思います。
いい笑顔だったでしょう?

しかし、影では「夕介君。俺は死にたくない。死にたくないよ!」と、泣いていました。
本当は怖くて怖くてたまらなかったはずなのに、皆さんの前では笑っていたのです。すごい男です。

位牌や遺影も、本人の強い希望でございません。
ですから、あの笑顔を皆さんの心に焼き付けて、折にふれてまた一緒に笑っていただくのが、鰹さんへの一番の供養になると思います。

引用元:ご報告 | 加藤鰹ブログ

12月、会いに行くかどうか、ぎりぎりまで悩んだ。背中を押してもらって、会いにいくことができた。会って本当に良かったと思ってる。こんな風に生きて、こんな風に愛されて、こんな風に句を詠み続けていきたいと心から思った。僕の人生を変える、貴重な貴重な時間だった。

笑顔で人生を走り抜けた鰹さんが、最後の最後、死にたくないと泣いていたということを知って、一晩、泣き続けてしまった。犬や血縁以外の人が亡くなってこんなに泣いたのは、生まれて初めての経験、心と身体の分離したような千切れ方が痛くて、寒くて、寂しくて、震え続けてしまった。僕は本当に鰹さんが、鰹さんの詠む句が大好きだったのだと改めて思った。

偶然。

鰹さんが2年間連載を担当されたコーナーのあとを継いで、川柳コロキュウムで連載を担当させていただくことになっている。こんな風に川柳の選をして、世界を伝えていきたいという僕なりの方法を鰹さんにも見届けてほしいと思っていたけれど、鰹さんはどんな風にそのコーナーを見守っていてくれるのだろう。僕のまだまだを笑って、色々指導をしてほしかったのに。

何度も何度も別離を経験してきたけれど、僕は死を受容することができない。時々くるまを停めては、涙で曇った視界がクリアになるのを待たなければいけなくなる。弱い人間だ。それでも、心から好きだと思える人に涙を流す自分がいなくなれば、僕はもう、詩を詠いつづけてこの世に存在することはできなくなってしまう。だから自己を否定せず、詩人らしく、言葉で鰹さんのことも伝えてみたいと願った。

生きて生きて生きて頑張ったその先に、涙が待ってる。こんなにつらいことはない。いなくなる未来ではなく、濃くなっていく未来だけを理想としているのに、いつも現実世界の梯子は僕たちを揺るがそうとする。振り落とされて痛みを覚えたあたりには、永遠の冷たさを伴って、からっぽの時空が降りてくる。

逢えたからこそ、存在する温度。逢ってしまったから、消失する苦しみ。ただただ寂しくて、何も伝えられなくなっている。僕は弱くて小さい。そして鰹さんは、とても大きくて温かな人だったんだ。