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日記 2025/10/31 ▼たとえば自分が高校球児で甲子園での優勝を目指し夢が叶ったとき、僕はNHKのインタビューで「山奥の祠に毎日5時間かけて通い祈祷をしてくれたおじいちゃんのおかげで」と応じなければならないだろうか ▼闘病における誰が主役なのか問題を考える

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たとえば自分が高校球児で、
夏の甲子園で全国優勝を目指したとする。

「頑張ってね、応援してるよ」
「ありがとうございます!」

自分が頑張ろうとしていることを宣言して、
承認されている状態。
この状態で自分の悲願が実現すれば

「皆さんの応援のおかげで」

という挨拶が使えるようになる。
このやり取りには何の問題もない。

実に美しいコミュニケーションだ。



問題は、である。

「そうか、甲子園を目指すのか。
ならば、毎日往復5時間を費やして山奥の祠へ行き
祈祷をし続けようではないか」

と言われた場合だ。

ありがたい。
実にありがたいのだけれど、
それはもう

「黙ってやってくれないか」

案件だと思ってしまうのだ。

重たい。
実に重たい。

優勝したとする。
この場合の手柄の配分はどうなるのだろう?

普通の応援の
「皆さんのおかげです」
程度なら、手柄はどう考えたって本人100%だ。

でもさすがに毎日5時間も費やしてくれたとなると

「知人が祠で祈りを捧げてくれたおかげで」

と、
僕はNHKの全国インタビューで応じなければならない。
いや、応じる義務はないのだけれど
応じなくちゃ悪いよな、
という気持ちにはなると思う。

つまり、手柄の配分が
山奥の祠へ何パーセントか向かうことになる。
向かわせなければならなくなる。

つらい。
いや、山奥の祠へ向かった本人も大変だったと思う。
でも、待って、と思ってしまう。

やっぱり手柄という称讃は、
いくらかはその効果もあったのかもしれないけど、
本人に100%向けられるべきんじゃないかなー。

と思ってしまう自分はケチなんだろうか。



病気、闘病。

頑張るのは本人、
家族、お医者さん、
医療スタッフの皆さん、
医療に携わってくださる業界の皆さん、
お見舞いという応援をしてくださる友人知人。

こんな感じなのかな、と僕は考えている。
異論は認める。

家族がずっと付き添ってくれたおかげで
お医者さんが一生懸命治療してくれたおかげで
看護師さんが献身的にケアをしてくれたおかげで
新薬の開発をどんどん進めてくれたおかげで
お見舞いで励ましてくれた皆さんのおかげで

おかげで。

おかげで、は、
これくらいでいい。
これくらいであれば、やっぱり
頑張ったのは本人だよね。

本人、すごいよね、という感じになる。
うつくしい。
とても美しい物語だ。

ここに山奥の祠の世界観が入ってくると
やっぱりバランスが崩れてしまうんだ。

登場人物たちがみんな、
疲れてしまう。

「えぇぇぇ、
“本人”を主役にしようと私たちは黒子になったのにぃ?」



自分の病気のことも書いているけど
今回、母の病気のことを書くと
あちこちにある山奥の祠から僕に祈りが届きはじめた。

本当にありがたい。
うれしい。

うれしいよ。

ただ、そうすると
僕たち家族は、すくなくとも僕は
主役のために描く脚本が霞んでしまって
なんとも複雑な気持ちになってしまうのです。

ので。
なので。

必要であれば
こちらから頭を下げて

教えて
助けて
譲って
山奥へ行って

なんてことを言いますので

どうかどうか
「~してあげる」

という語尾のアプローチは
控え目にお願いしたいのです。

ましてや
売買を伴う何かについては

「売るのではなく選ばれる」

を商売人の信条としている自分にとって

「ひとの弱みにつけこんで売るってどないやねん」

という怒りのアフガンモードに突入するので
何卒お控えいただきたく。



山奥での祈りは
厳かに静黙に行われるから良いと思うのです。

サラウンドスピーカーは似合わないよ、たぶん。




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