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「おはようございます。今日も素敵な一日をお過ごしください」に思うこと

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「梅の花が咲いていました」に「和みますね」「春ですね」という会話が成立していると、見ているこちらもホッとする。「おはようございます。今日も素敵な一日をお過ごしください」といった類の、誰のどんな内容にも対応できるコピペで荒らされているのを見ると、何とも言えないモヤモヤとした感情に支配されてしまう。Facebookでのお話。

薬物中毒になってしまう前に周囲の誰かが手を差し伸べてあげられなかったのだろうかという論説を見かけるが、ほとんどの場合、周囲は変調に気が付いて距離を置いていくのではないだろうか。なんとなく違和感のある人、組織、商材、宗教、犯罪といったものへの関与が感じられると、それに巻き込まれてはいけないという防衛本能が働いて当然だと思う。

「あちら側」の何かを選ぶことも、その人の判断。それはそれで良いと思う。正しいや間違っているという考え方はしない。ただ、「あちら側」が「こちら側」の領域にやってきて手招きするとき、「こちら側」は、その異質を話題にし合うようになる。そして人間関係に変化が訪れる。そういうとき、僕はどの立ち位置でどんな言葉を、誰に発していったらいいのだろうと悩んでしまう。あの人のためだ、という正義が相手の価値観に干渉するようであってはならない。自分はまともな側にいるという考え方も危険な思想だ。そして僕はずっと、違和感の次元にいて、こうして自分の領域で、粛々と伝え続けることだけを決める。慎重に言葉を選んで「自分は知っていたのだ」という顔をする、卑怯な人間のひとりなのかもしれない。

違和感とは、自分の持っている何かとはちがうものに対して抱くもの。けっして、自分が正しいとか相手が間違っているという考え方の基準とするものではない。わかってはいるのに、この焦燥感にも似た感覚に胸が苦しくなってしまう。

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