たとえば自分が高校球児で、
夏の甲子園で全国優勝を目指したとする。
「頑張ってね、応援してるよ」
「ありがとうございます!」
自分が頑張ろうとしていることを宣言して、
承認されている状態。
この状態で自分の悲願が実現すれば
「皆さんの応援のおかげで」
という挨拶が使えるようになる。
このやり取りには何の問題もない。
実に美しいコミュニケーションだ。
*
問題は、である。
「そうか、甲子園を目指すのか。
ならば、毎日往復5時間を費やして山奥の祠へ行き
祈祷をし続けようではないか」
と言われた場合だ。
ありがたい。
実にありがたいのだけれど、
それはもう
「黙ってやってくれないか」
案件だと思ってしまうのだ。
重たい。
実に重たい。
優勝したとする。
この場合の手柄の配分はどうなるのだろう?
普通の応援の
「皆さんのおかげです」
程度なら、手柄はどう考えたって本人100%だ。
でもさすがに毎日5時間も費やしてくれたとなると
「知人が祠で祈りを捧げてくれたおかげで」
と、
僕はNHKの全国インタビューで応じなければならない。
いや、応じる義務はないのだけれど
応じなくちゃ悪いよな、
という気持ちにはなると思う。
つまり、手柄の配分が
山奥の祠へ何パーセントか向かうことになる。
向かわせなければならなくなる。
つらい。
いや、山奥の祠へ向かった本人も大変だったと思う。
でも、待って、と思ってしまう。
やっぱり手柄という称讃は、
いくらかはその効果もあったのかもしれないけど、
本人に100%向けられるべきんじゃないかなー。
と思ってしまう自分はケチなんだろうか。
*
病気、闘病。
頑張るのは本人、
家族、お医者さん、
医療スタッフの皆さん、
医療に携わってくださる業界の皆さん、
お見舞いという応援をしてくださる友人知人。
こんな感じなのかな、と僕は考えている。
異論は認める。
家族がずっと付き添ってくれたおかげで
お医者さんが一生懸命治療してくれたおかげで
看護師さんが献身的にケアをしてくれたおかげで
新薬の開発をどんどん進めてくれたおかげで
お見舞いで励ましてくれた皆さんのおかげで
おかげで。
おかげで、は、
これくらいでいい。
これくらいであれば、やっぱり
頑張ったのは本人だよね。
本人、すごいよね、という感じになる。
うつくしい。
とても美しい物語だ。
ここに山奥の祠の世界観が入ってくると
やっぱりバランスが崩れてしまうんだ。
登場人物たちがみんな、
疲れてしまう。
「えぇぇぇ、
“本人”を主役にしようと私たちは黒子になったのにぃ?」
*
自分の病気のことも書いているけど
今回、母の病気のことを書くと
あちこちにある山奥の祠から僕に祈りが届きはじめた。
本当にありがたい。
うれしい。
うれしいよ。
ただ、そうすると
僕たち家族は、すくなくとも僕は
主役のために描く脚本が霞んでしまって
なんとも複雑な気持ちになってしまうのです。
ので。
なので。
必要であれば
こちらから頭を下げて
教えて
助けて
譲って
山奥へ行って
なんてことを言いますので
どうかどうか
「~してあげる」
という語尾のアプローチは
控え目にお願いしたいのです。
ましてや
売買を伴う何かについては
「売るのではなく選ばれる」
を商売人の信条としている自分にとって
「ひとの弱みにつけこんで売るってどないやねん」
という怒りのアフガンモードに突入するので
何卒お控えいただきたく。
*
山奥での祈りは
厳かに静黙に行われるから良いと思うのです。
サラウンドスピーカーは似合わないよ、たぶん。