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自分の表現や発信が他を蔑んでいないか傷付けていないか想像する方法

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差別化について語るとき、僕は必ず他を蔑んではいけないという話をする。自分よりも劣るものを前に出して「あれと比べればこちらはこんなに優れている」という話をせずとも、ちゃんと自分の想いを伝える。自分たちの関わることによる変化を物語にして表現する。それだけで相手はもう、想像力を自然と働かせてくれるということについて何度も。

他を蔑むことが差別化なのだとすれば。 | コトバノ
特長と特徴の違い、使い分けについて ~差別化のためにしてはいけないこと | コトバノ

ところが「蔑んだり悪口を言ってはならないということはわかった。ただ、悪意なく他を否定して攻撃してしまう可能性も否めず、言葉は難しいと思う」ということもよく聞かれて、なるほどと思う。たとえば僕が今こうして書いていることは、特定の誰か何かを思い浮かべているわけではない。それでももしかすると(あいつは、Aさんのことを浮かべて書いているに違いない)と思う人もいるかもしれない。悪意なくとも他を傷付けてしまう可能性は、表現をしていけば起こり得ることで、その関わりに疲弊して表現や発信を継続することを挫折してしまった人も多いのではないかと思う。

表現や発信が他人を傷付けていないか想像する方法

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自分の表現や発信が他人を傷付けていないか想像する方法の一つとして、表現の対象となる本人のお子さんが、次の日学校に行ったらどんな風にクラスメートに言われるかをイメージするようにしている。

表現や発信が他を傷付けていないか想像するために、表現の対象となるそのお子さんがクラスメートにどんな風に言われるかをイメージする

たとえばブラック企業という言葉がある。その仕事の内容を助長するつもりはないが、ブラックと言われる企業で働く父や母を持つ子どもは学校でどんな風に言われるのだろう?「お前のお父さん、ブラック企業で働いてるらしいな」。食べると身体に良くないとされる食材を育てている農家の子どもは何と言われるのか?「君の家で育てているものを食べたら、病気になってしまうって本当?」

内心に思想の自由があって、表現の自由は認められている。だから僕たちは、誰かを傷付けないために想像や道徳という意識と概念でしか自衛することはできないわけだけれど、そのとき、対象のその先にいる誰か(この場合は本人のお子さん)を具体的にイメージすれば、言葉は少しだけ丸みを帯びて、人に届く、世の中を変えようとする働きになるのではないかと考えている。

武器にもなれば、優しさの薬にもなるのが言葉のチカラ。表現は心に届く、良くも悪くも。

配慮に満ちた言葉が温度の伴った論となり、変化への最短距離となっていく。僕はそのチカラを信じて、言葉を紡いでいきたいと思う。明日の誰か同士の、教室のなかでの会話を想像して。