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辞表を遺書に持ち替えて ― 論よりも伝えたい、覚悟と姿勢。

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昨日までは、もしかしたら、美味しいものを安く提供してくれるいい会社だと言われていたのかもしれない。熱心に働く社長さんだと言われていたのかもしれない。間違いないのは、何十箇所という納入実績を作るために、様々な努力が行われてきたということだ。時間をかけて、情熱を燃やして。

その、昨日までが、一瞬で終わる。

昨日までと同じように作っていたのだから、今日も同じように、お客様に納得してもらえるものが提供されていたのだと信じていただろう。目に見えないものが付着していて、それがお客様の身体に害を及ぼし、命を奪うなど、けっして考えなかったはずだ。でも。

悪意があったわけじゃない。
だから許してください。

こんな論理が通用しないことはわかってる。謝罪をしなければならない。補償もしなければならない。償っていかなければならない。でもどうやって?お金を払っていくためには、お金の入ってくる仕組みを作らなければならない。一度レッテルの貼られた会社の食品を、誰が買うだろう?売上は落ち込む。給料は払わなければならない、諸々の支払いもある。八方塞がり。希望? どこに?

サラリーマンだったころは、いつも辞表をカバンの中にいれていた。
経営者になってからは、それを遺書に書き替えた。迷惑をかけてしまうことがあれば、命を絶つことでけじめをつけようと考えていた。もっともそれは、けじめではなく、放棄という無責任であることに気が付いて今は持ち歩いていないけれど。

責任とは何なのだろう。責任を完遂するとはどういうことなのだろうと、冒頭のような事件の「悪意のない加害者社長」の立場を思うとき、いつも深く深く考えさせられる。IT技術の進化により、女性の社会進出により、数年前までは考えられなかったような新しい概念の仕事が増えてきつつあるが、テクニックやナレッジ以上に、自分の考える責任感や使命について表現出来ている人は、分母ほどは多くないような気もしている。ポジティブシンキングといえば聞こえはいいけれど、リスクに対する明確な意志を示すことも、容易に情報発信の出来るいま、大切なことの一つだと自問してみるべきかもしれない。

昨日までと同じように、今日を生きている。

期待感が高まっていくなかで、十分にそれを埋めきれていない現状へのもどかしさ。
毎日に罪悪を背負いながら、明日こそはと理想を描きつつ。

軽薄にならない道は、どこに。