(12月6日:土曜日)
母と電話で話す。
歩行時に眩暈などもなく、電話をしても差支えの無い場所までひとりで移動したとのこと。
昨夜は切ったところの痛みが激しく、痛み止めの点滴を追加してもらってようやく休むことができたそう。血液培養をして細菌の有無を確認することになったのだとか。菌血症や敗血症の可能性も見ておくということなんだろうな。
せっかく悪いものを取り除けた身体だ。どうにかこのまま、ひとつひとつの関門を潜り抜けていってほしい。夜は長くてしんどいね。
(12月7日:日曜日)
尿道のカテーテルが抜け、背中から断続的に注入されていた痛み止めの管も抜けたそう。血液培養の結果は問題なし。切った傷の痛みは相変わらず激しく、起き上がるときと横になる瞬間が”猛烈”らしい。
今日からお昼ご飯が出るようになった。

おおおおおおお(驚)。
事前に聞いてはいたけれど、母から届いた写真を見てびっくりした。オール液体。それでも、これを飲んだだけでお腹が痛くなるというのだから、焦らず少しずつ回復させてほしい。
自分は入院していたときに、喉が痛くてご飯が食べられずうどんに変更してもらっていた時期がある。本来マーボー丼だった日に、うどんの横に麻婆が添えられているのを見て、気持ちが折れたことを思い出した。食べることは大事。体力はもちろん、気力の面でも。
※なお、現在はインフルエンザ流行の関係で、面会は一週間に一度しかできないことになっている
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お医者さんは本当に大変な仕事なのに、残業時間の規制が緩和されている。つまり事実上、医師としての”良心”に依存してこの国の医療制度は維持されているよね。
なのに僕たちは医療費が高い、税金が高い、労働時間が長いと言ってしまう。この人口が減りゆく未来が見えているにも関わらず。 医療も含めた、インフラを守る人たちのためにこうしようという機運にならないのをもどかしく感じてしまうな。
自分は2週間も公費で治療入院させていただいたし、今回、母も手術をしていただいた。父は生前、ずっと透析治療を受けていた。いわゆる「恩恵を受けている側」なので、やっぱり社会にちゃんと返していきたいと思うよ。
「無駄をなくしたらいい」と簡単に言うけれど、無駄って何なのだろう。あんな無駄やこんな無駄と、指をさして批判する中にはすでに、それによって生活の軸を作っている勤勉な労働者だっている。無駄を批判することが悪いと言っているのではなく、無駄という言葉で正義を振りかざしすぎると、罪もなく傷つく人がいるという想像があってもいいのではないか。そんなことを最近よく思う。
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病気のことを書いていると病気の。投資のことを書いていれば投資の。川柳や短歌を詠んでいれば詩人たちの。そんな情報が入ってきてネットワークが広がっていく感覚がある。これはもう、昔からずっとそう。
自己開示しあってなんぼ、という自分たちのような世代と比較して、最近の人たちはガードを下げないと聞く。なにかあればすぐに炎上したり叩いたりしてくる人が現れる世の中だ。それも仕方ないことなんだろうけど、言い換えると、相対的には自己開示をする人が減っているわけだから、自分のことを自分の言葉で伝えられる人は勇気と想像力を持つ人だと思うよ。