母の手術日。
朝、家の電話が鳴る。不吉な予感がしてならない。病院からだろうか。母の体調に変化があった? 手術ができなくなってしまった?
「兄貴ごめん、38度ある。。。 これで病院行ったらマズイよな?」
弟よ。。。
ドキドキさせないでくれ。

(手術直前の母と)
病院に着いてしばらく、母と話す。
来ることのできなかった弟とビデオ通話。
母が緊張しているのがよくわかる。
それを笑わせようと、弟は汚い歯並びを見せる。
お隣のご家族も同じようなことをしていた。
「2番線に列車がまいります」
という音がスピーカーから聞こえてきて笑ってしまった。励ます相手は、どうやら通勤途上のホームにいるらしい。みんなそれぞれ、日常を生きながら家族を支えている。祈っている。
*
手術室へ、母と看護師さんと歩いて向かう。
ベッドに横になっていくわけじゃないんだな。
母は扉の向こう側へ行き、僕は術後、医師と話を聞く部屋と集中治療室の場所を教えてもらって家族待合室へ向かった。
手術は9時に始まり、11時までに呼ばれなければ播種(転移)はなく、手術が続いていると思って良いと言われている。義父の場合はこれがダメだった。ステージ1だったのに、手術が始まってすぐに播種がわかり中止に。同じ手術室、同じ待合室。あの日の無念が同じ部屋を支配しているようで、空気が重たかった。
時間が長い。
もう1時間経っただろうと思って時計を見ると、まだ5分しか経っていない。気を紛らわせようと本を開く。文字が滑って頭に入らない。手のひらを重ねて念を送る。全身が震えてしまう。祈る。願う。壊れそうになる。壊れてもいいから頼む、お願いしますと念じる。世界中の神さまを探す、求める。
同じ部屋で待つご家族も、それぞれの時間を過ごす。
会話はない。
ナンプレの本を開いている方は、さっきからずっと、なんの進捗もないようだ。
廊下を隔てた向こう側のドアの向こうで、複雑な命のパズルが行われている。
*
「一生のお願いだから、これを買って」
なんてワガママを良く言った。でもそれは、親にねだったものだ。神さまにはかつて、どんな一生のお願いを念じたことがあっただろう。いや、ありすぎて覚えていないか。

4年前、自分がコロナになったとき、死を覚悟した一瞬があった。母親にだけは謝っておこうと思ったら、「お願い!」とこんなメールがやってきたのだった。
あの日、母のために死んではいけないと思った。
今日、このメッセージを読み返しながら、自分たちのために母には生還してほしいと思った。どうかすべてがうまくいきますように。
*
12時半を過ぎた頃、手術室から電話がかかってきた。
「まもなく手術が終わりますので、手術室前に来てください」
緊張が走って汗が噴き出した。
予定では14時とか15時とか、もっとかかるはずだったのに。
そしてお医者さんからの説明。
「最終的な確定診断はこれから2週間程度かかりますが、胃の3分の1を残して、予定通りすべてうまくいきました。手術中にわかる検査では、細胞レベルでの転移もありませんでした」
涙があふれる。
ありがとうございました。
ありがとうございました。
ありがとうございました。
ちゃんと言えたっけ。
視界が霞んだことだけはよく覚えている。
*
30分ほど経って、麻酔から目を覚ました母と集中治療室で面会することができた。
「すべてうまくいったぞ」
「嘘ついてない?」
「やさしい嘘も用意してたんやけど、無駄になった」
どう表現していいのかわからない。
そう思うのが正しいのかどうかも分からないけれど、なんだかこの瞬間、新しいおもちゃを買ってもらったような気持ちになった。
今ここに母がいて、母の身体からは悪いものが消えたのだ。
弟とビデオ通話にしてやる。
「あんたは馬鹿」
「なんでよ」
「こんな日に風邪なんて引いて」
言われて、弟はまた、汚い歯並びを見せて笑いを取ろうとする。
まだ切ったところが痛むんだって。
*
やがて病院を出て、駐車場へ向かう途中で倒れ込んでしまった。
この二か月、ずっと緊張していた身体がようやく弛んだのかもしれない。車のなかでしばらく休んだ。帰宅してからも眠気が続いた。そして朝が来て、いま、これを書いている。
母は高齢で、寝たきりにするわけにはいかず、今日からはもう早速リハビリに努めなければならない。ここまでは神さまや医療のチカラだ。ここからは本人の意志が試される。面会しながら「UFOキャッチャーに行きたい」って言ってたもんな。だからしっかり、歩く練習もしてもらわないと。
*
夜、月が綺麗だった。
朝、冷気が世界を支配していた。
五感のすべてに訪れる変化は、生きているからこそ存在を認められるものであり、僕はそれを入院したときに強く思った。いまこの瞬間もまた、同じように世界を認めている。それぞれの命、つながりあって、僕の感覚は研ぎ澄まされていく。
いのちって、いいな。
いのちって、いいよ。
祈ってくださったすべての愛に感謝を添えて。