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父の死後、すぐ、家庭裁判所にて。それからの冬。

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国道で交通量調査を行った友人の「鼻毛は一日で伸びるし、鼻の中は真っ黒になるし」と語っていたことを思い出す。

日常に起きることを「プラス」「プラマイゼロ」「マイナス」の3つに分けたとき、このマイナスの空気に晒された心と身体はどうしたって薄汚れたような感覚になってしまう。たとえば悪口、たとえが愚痴、たとえば文句、たとえば自慢。マイナスを帯びた心を浄化させるためには、どこかでそのマイナスを排出する必要がある。わかりやすく言えば「愚痴をこぼす」という行為がそう。そして気が付く。マイナスはババ抜きのジョーカーのように居場所を変えていくだけなのだということに。世の中に存在する感情の総量は変わらないということに。

自分が負のカードを持つことも嫌だけれど、負であることを分かっていて、それを誰かに手渡すことにも罪悪感が伴う。「人それぞれ」という考え方は防御にある程度の力を発揮してくれるものの、度が過ぎれば、人付き合いの距離感に支障を来してしまうこともある。ある程度を許容して、鼻のなかのケアを定期的に行っていくこと。それが生きにくい世の中を生きていくためなんだろうと承知しつつ、綺麗な世界を求める僕はまた、青すぎると誰かに笑われてしまうだろうか。

父の死後、すぐ、家庭裁判所にて

父が亡くなってすぐ、調停のため、家庭裁判所に通った。重たい空気のなかで、父が存命であれば起きることのなかった争いを憎んだ。僕はすべての権利を放棄して、争いと憎しみのない環境を選ぶことにした。時間を無駄にはしたくなかったし、父を悲しませたくはなかった。そしてもう、すべてを忘れることにした。

はずだったのだけれど。

7回忌が近づいて、その忘れたつもりだった時間は、見て見ぬ振りをしていただけであったことを思い知らされる出来事があった。憎しみあったはずのお互いの涙が、その時間とわだかまりを一瞬で解かしてしまったのだという。母と祖母の関係、そこにお互いの理解が生まれたのであれば、子であり孫である自分に何ら異論がある筈もない。それを彩る手伝いをすれば、きっと父は喜ぶ。だから僕は手伝いたいと思う。90歳を過ぎた今、もう、これは最後のチャンスになることは間違いない。そうしてまた、父のことを偲ぶことができれば、できれば、できれば、できれば。

心の底で沈んでいたカードは、ずっとジョーカーだと思っていた。季が巡って、雪解け、それが小川の如き優しさを真ん中に与えてくれようとしているのは、やっぱり父の力なんだろう。声にできない感情、父と過ごした時間、父と生きていく時間。

カレンダーは新しい一枚をめくってほしそうな顔をしていて、長い冬が終わろうとしている。