業務日記

優しさに見える残酷、残酷に見える優しさ

ここ数年よく使うようになった言葉に「優しさに見える残酷、残酷に見える優しさ」というものがある。

こうしてあげた方が良いだろうと思って、なにかをして「あげる」。すると相手はそれを「もらう」ことが当たり前になってしまって、以後、自分の腕を伸ばして掴もうとすることをしない。不幸なのは、与える主がいなくなってしまったときだ。もらい方だけを覚えた相手は、引き続き、違う主を探して与えて「もらおう」とする。与え続けることだけをしてくれる主が未来永劫現れ続けるとは限らないのに、与えられる側は常にそれを求めようとする。現れなければ、今度は、時代や政治のせいにして自分を正当化しようとする。与えてもらうことが正義となってしまうと、こんな不幸の連鎖に陥ってしまうことがある。

責任感や義務という言葉に縛られて、僕はずっと、与え続けようとしていたのだと思う。それも自分の役割だと思っていた。でもそれは、「優しさに見える残酷」だと気が付いた。自立の可能性を奪って甘えさせてしまい、いつまでも本気を出すことのない、している振りのアリバイ作りだけの組織にしてしまったのは自分が原因。年齢相応の十分な接客や対応もできず、言葉の使い方や漢字の読み方、単純なカタカナの意味さえ知らないままに現場に立っている。恥をかけば、そのうち、恥をかきたくないという自我に目覚めるだろうと見守り続けてはきたが、そんな風に期待することもまた、自分の甘さだったのだと思い知らされる。

外からの評価はかなり厳しいものになってきている。「なんだあの服装は」「どうしてあんな日本語になるの?」「会社の数字のことを彼らは理解してるの?」「本なんて全然読んでないのでは?」、そして極め付きに「彼らがいるのならこの仕事は頼めない」。

試されているなぁと思う。そんな意見のほとんどは、彼らの耳に直接届くのではなく、リーダーである自分のところにやってくるという末期的な状況について、彼らはどれだけ危機感を抱いているだろう。そして僕自身もまだ、「残酷に見える優しさ」に躊躇してしまう弱いところがある。

目に見えている事象について、原因もはっきりしている。本気が試されている。「優しさに見える残酷、残酷に見える優しさ」。ここでギアを入れ替えなければ、もう、未来はないなぁと思っている。それが本気か、それで本気か。