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僕は「うほほーいオーラ」を出して、またヤバい人間になってしまうのである

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意味を添えて言葉にすることもあれば、語感だけでその言葉を用いることもある。

たとえば「ヤバい」なんて言葉は、意味よりも勢いだろう。文字になった表現のすべてが「ヤバい」になってしまうのは確かにヤバいのだろうけれど、会話をしているときの「ヤバい」は、ある程度の驚嘆や感動を理解できるものなら、使っても構わないと思っている。「おいしい」「ヤバい」で伝わるものを、「これはかつて口にしたことのあるどの食材よりも柔らかく、甘く、それでいて懐かしく、優しい。僕はこの感動のために今日までを生きてきたのかもしれない」なんていちいち言葉にしていれば、一瞬で面倒な人間だと思われてしまうことだろう。本当の意味で「ヤバい」奴になってしまう。

会話をしていると、この人はいま、もっと難しい言いまわしを思いついたのに、この場の最大公約数を選んで、あえてこの言葉を用いたのだな、と気付くことがある。カタカタではなくあえて「たとえば」を使ったな、とか、四字熟語ではなく「自虐」で悟らせたな、とか。

おお、かっこいい。なんて頭の良い人なのだろう。
ぼ、ぼくも、あなたのその配慮に気付いた人なのです。そのうちのひとりなのですが、えっと、気付きましたよ、今の配慮。気付きました気付きました。えーっと、挙手しましょうか? はいはーい、僕、気付いてる側の人間ですよー。うほほーい。

と、アイコンタクトなり、気付いてる空気的なものをある程度醸し出したところで(あ、この気付いてますよオーラが嫌な奴オーラなんだった)とようやく理解するのである。だが時すでに遅し。このうほほーいオーラを我慢できないところがダメなところだ。

言葉は面白い、同じことを伝えるのにも表現は人の数だけある。正解はないし、上も下もない。配慮に満ちていることもあれば、乱暴なこともある。すべて、人を表している。うほほーいは少し痛いけれど、それだって僕の個性なのだ。

表現を臆することはない。どんな人格も、どんな商売も、伝えていかなければ、伝わらない。伝えないのは存在しないのと同じ。痛くても良いではないか。その傷もまた、誰かが僕を、僕だと認めてくれる。

伝えるということ、伝わるということ。
そこに在るということ。

僕は痛くて弱いなりに、その価値を伝えていきたいなぁと思っている。