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第一着想を捨てると、自分が生まれる。

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咲いた花を見て、美しいと思うのもひと。その花が枯れてしまうあはれを想うのも、また、ひと。一方で、咲き方の不自然を訝しむのもひとである。そしてそれは、自分の耳にいれたくない類の話。思う自由までは咎めないけれど、同調を求められると苦しくなる。反論もしんどくて作る距離。それでも不思議、背けていても、また違う誰かが浸潤してくる。いくつかの確率論を経て、人間付き合いの好き嫌いが出来ていく。そのさきに、僕が出来ていく。

狭い路地で、立ったまま画板を抱える女性に出会った。
聞くと、その路地の狭さと、先にある広がる町と海の情景を描きたいのだという。なるほど面白い。川柳の世界でも「見つけ(着想)」が8割だといわれる。つまり、同じ対象を捉えたときにはもう、その発想は他の誰かが思いつく(あるいは過去に存在した)と決めて捨てる。そこに自分が生まれる。絵画の世界でも同じだということを教えてもらって、僕はしばらくその背中から、この光景をどんな言葉で表現しようかと指を折って過ごした。

押しつけられない程度の、ひと、それぞれの価値観に触れる。
そして僕は、僕なりを伝えたくなった。