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林檎の再生に未来を費やすよりも、木を植えなおそう ~サンクコストについて考える

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前回は仮想通貨のことについて書きました。

投資というのは自己責任です。ただ、世の中には「投資の場へいざなう」ことで収益を得る仕組みがあります。「絶対もうかるよ、だから一緒にやろう」というやつですね。これを誘うのも誘われてやるのも自己責任。大原則です。

ただね、思うのです。誘われる人は、いつまでもずっと、誘われて「吸い上げられる側」なんじゃないかな、と。

投資の世界に限った話ではないですね。儲け話の周辺には、いつもそんな気配があります。そして損したことを「先行投資」だと言い聞かせて、その投資を回収するために次はこういうことをやってみようと持ち掛ける。損を損のままで終わらせたくない人は、「今度こそ」とまた、同じような負担を強いられるという悪循環。そして、そのような悪循環の臭いをさせる人のところからは、これまでの人間関係が離れていってしまいます。失うことの連続、奪われていくことの連鎖。

林檎が、もう、食べることのできないくらい腐ってしまったならば、その再生に未来を費やすよりも、木を植えなおすべきなのです。奪われてしまった時間のことはさっさと見切らなければ、負は連続してしまいます。

専門用語ではこれを「サンクコスト」だとか「埋没費用」という言い方をするのだそうですが、僕は上手な負け方として考えるようにしています。すべてに勝つことなんてありえない。だったらせめて、ダメージの小さな負け方をしようと。

過去は未来への資産であるべきで、過去が未来を損なうものであってはなりません。
僕たちが手放せないでいるものは、資産なのか、執着なのか。

四十代は人生の折り返し。元気でいられる時間のことを考えると、もうとっくに折り返しは過ぎていると考えるべきでしょう。限られた時間のなかで、さて、この右手に、左手に、何を持ち続けているのか、持ち続けてしまっているのか。ちゃんと見つめなおしていきたいところです。